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日暮里繊維街とは
日暮里駅から日暮里中央通りを中心に現在、約90店舗(約60社)が加盟しておりファッション・手芸・ものづくりを楽しむ方々(デザイナー・アパレルメーカー・作家・学生など)が材料を探しに訪れる街です。
大正から昭和終わり頃までは問屋街として地方の専門業者さんに卸売りをするお店が建ち並ぶ街でしたが、時代の変化と共に小売り対応するお店が増えてきました。
メイン通りである日暮里中央通りには繊維資材を中心に革・付属・ボタン・型紙・縫製・アクセサリー・等の様々な専門店が増えてきております。
また、メイン通りから外れた裏路地や建物2階にある「裏にっぽり」尾竹橋通りを越えた「奥にっぽり」などにも1軒1軒の品揃えも異なり覗いてみればきっと面白い素材や素敵な素材との出会いが待っていると思います。
また、近年は海外の人も多く訪れていただき国内だけでなく世界中の方々に愛される街として注目を集めている街です。
理事長挨拶
日暮里繊維街は日暮里駅東口(JR線・京成線・舎人線)から、日暮里中央通り(バス通り)を中心に両側約1キロにわたり生地織物の店が軒を連ねる繊維の街、これがいわゆる「日暮里繊維街」です。繊維街には和装、洋装、紳士婦人服地、繊維製品から服飾関連の小物から付属品に至るまでファッションや手芸に関する全てのものを取り揃えた品揃え豊富で便利な街です。
一定地域に90軒以上の生地を扱う店が集う繊維問屋街は全国広しといえども日暮里繊維街をおいて他に無いと自負しております。
東京日暮里繊維卸協同組合
理事長 山田 章博
日暮里繊維街のあゆみ
大正時代
黎明期
大正初期、浅草方面で営業していた古繊維、栽落業者が、当時まだ閑散としていた日暮里、 三河島周辺に集団移動した。以後日暮里地区として繊維業者が集まる様になりました。
大正12年の震災、昭和13年の日暮里大火を経て日暮里地区は区画整理が進み、道路も整備され、 第三日暮里小学校周辺に20店舗程の店売り業者が営業を始めておりました。 一方神田(岩本町)、浅草(寿町)には和歌山の染工所や大阪の紡績会社、 日本橋掘留の大問屋等から出る2等品(B・C反)、見切り品等を扱うハギレ問屋が多く、 日暮里地区の業者は、こうした問屋からハギレ、裁落、2等品(B・C反)或いは 縫製工場から出る余剰反等を仕入れ販売をしていました。
昭和時代
統制期
昭和12年の日中戦争、16 年太平洋戦争による物資不足 により統制経済(配給制)に入り20 年の終戦まで営業を停止せざるを得ませんでした。
戦後
終戦と同時にハギレ類は統制を解除され、地元或いは裁落から転向した業者等が日暮里地区で営業を再開、 軍の隠退蔵物資、進駐軍の払い下げ品、アメリカ古衣料、羅紗裏地、ハギレ等を販売、 以後順調に拡大発展し現在の基盤を築きました。
組合設立まで
昭和23年 任意団体として「東京フェンツ協同組合」を結成。
昭和26年 「東京フェンツ協同組合」を正式名称として公認申請し、公認団体として登記されました。
昭和31年 任意団体「荒川羅紗裏地卸商睦会」結成。
昭和44年 二団体が合併し「東京日暮里繊維卸協同組合」を設立。
平成時代
「ファッションギャザリング」
平成元年2月にホテルラングウッド内に、荒川区文化施設「多目的ホール」がオープン。
そのオープンセレモニーとして2月9日(服の日)に第一回のファッションショーが開催された。
ファッションショーは東京都専修学校各種学校協会加盟の服飾学校の生徒達による作品発表の場として、日暮里繊維街としては、繊維街さらには日暮里地域の活性化を図る目的で開催しています。
「日暮里ファッションデザインコンテスト」
平成18年第六回のファッションショーから、日暮里繊維街活性化ファッション ショー実行委員会が主催となり、「日暮里ファッションデザインコンテスト」 と名を改めました。以降毎年開催されています。
また、平成27年第10回「日暮里ファッションデザインコンテスト」(通算第15回) のさいに、イベントの一環として、日暮里繊維街のマスコットキャラクターを一 般公募しました。
その結果「日暮里繊維街マスコットキャラクター”にっぽりん©”」が誕生しました。
令和時代
これから
おかげさまで50周年を迎えました。
これからも古き良き面影を残しながらも時代に合わせ、歩み続けていきます。
お客様のニーズにお応えできる様に新しい情報を取り入れ、愛される街として発展し続けていきたいと思っておりますので、今後も日暮里繊維街をどうぞよろしくお願い致します。
組合情報 |
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名称 | 東京日暮里繊維卸協同組合 |
所在地 | 〒116‐0014 |
理事長 | 山田 章博 |
組合員 | 61 名 |